進化は退化の始まり

「進化は退化の始まりである」という考え方が僕の中にはある。

世の中が便利になり、デジタル化・自動化が進めば進むほど人間としての個体値は衰えていくということ。

電子決済に頼りすぎると計算能力が衰えるし、高性能なシューズに頼り過ぎれば足は弱くなる。自動運転が当たり前になれば咄嗟の判断力は鈍るし、スマホやパソコンに頼りすぎると漢字は書けなくなる。なんでもそう。

ただ、時代の変化に対してあまり否定的になるとただの「頑固オヤジ化」してしまうので、バランスを取りながら生きていくことは大切だと感じます。なにより、僕自身が超デジタル人間です。

このことに関して、僕のお客さまから「でもそうやって衰えた状態でも生きていける世の中になるんですかね?」という鋭いご質問をいただきました。あまりに鋭い質問で感動しました。というのもちょうどそのことについて考えていたから。

人間が環境に適応することを繰り返しながら進化してきた背景を考えると、現代における猫背だったり巻き型だったりストレートネックだったり、それはある意味「適応」なのかもしれない。むしろ、背筋がピンと伸びているほうが「適応できていない」という捉え方もあるのかもしれない。人はまた四足歩行に戻るのではないか、とすら思うのです。

体力的な観点から見れば、江戸時代の人たちよりも、現代人のほうが劣るのは火を見るよりも明らか。そう考えると、平均寿命が伸び、長生きすることができる時代になったのは、医療や医薬品の進歩、介護の普及、食の安全や衛生面の改善などのお陰でしょう。

なので、そういう時代に生きているわけでから、ある意味我々は適応できている。別に体力をつけたり、ダイエットをしたり、姿勢を改善したり、そうする必要はないのではないか、とも一瞬思った… けど、運動指導者としてそんなことが許せるはずがない。最適な答えはなにか…と考えてたのだけれど、コンビニまで自転車を走らせている時に、ふと答えが見つかった。

それって、“生かされている”のであって「生きているのではない」ということ。つまり社会や環境に恵まれているだけで、それに甘んじているだけなのではないかと。一番怖いのは「便利」に慣れすぎてしまっていて、退化していることに気づかないこと。毎回エレベーターに乗っていれば脚力の衰えって気付かないもんですが、久しぶりに階段を使ってみたら超衰えていたみたいな、それと同じことが起きていると思うのです。

生きるというのは、もっと能動的でプロセスを楽しむ行為でもあると思うのです。簡単に言えば、登山で山頂まで歩いて登るのかロープウェーで登るのかみたいなもの。どちらにしても最終到達点は同じだけれど、より能動的でプロセスを重視しているのは歩いて登る場合でしょう。

ラクな時代だからこそ、あえて苦労を経験するというのは大切だと思うのです。でないと、人としての「個体値」が低下してしまうのではないかと思うのです。

ただ、何度も言うように、あまりに偏りすぎると「頑固オヤジ」になるのでそこはバランスです。いつまでも自分の力で健康的に生きていけるよう、便利と不便のバランスを取った生活を送ることが大切なのかなと感じる今日この頃です。

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